読書日記

平成17年7月〜9月

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「刀狩り−武器を封印した民衆−」(藤木久志・岩波新書)

秀吉の刀狩りによって民衆は武装解除されたという「常識」がつくられてきたが、それは本当だろうか。調べていくと、それに反する興味深い史実が次々と浮かび上がってくる。秀吉からマッカーサーまで、刀狩りの実態を検証して、武装解除された「丸腰」の民衆像から、武器を封印する新たな日本民衆像への転換を提言する。(表紙カバー裏より)

著者の本は「戦国の村を行く」「雑兵たちの戦場」などを読んできた。とかく戦国武将の出世物語、戦略・戦術論に目が向けられがちだが、へそ曲がり読書家としては、この著者の民衆レベルでの戦いの有様を研究した著作には目から鱗が落ちる感動を与えられてきた。この著も、そういう意味では(雑な言い方だが)鱗がボロボロ落ちてくる一種痛快感を与えてくれる。

具体的論述の例−−秀吉の刀狩令は、すべての百姓の武器の没収を表明していたが、現実には、村の武器の根こそぎの廃絶というよりは、百姓の帯刀権や村の武装権の規制として進行した。「人を殺す権利」は抑制されたが、村々にはなお多くの武器が留保された。そして、村の武器を制御するプログラムは「喧嘩停止令」をもって組まれた。即ち、従来から行なわれてきた村々による山野河海の紛争の場で武器を用いて集団で争い「刃傷」する「村の戦争」を禁止する。それは、村々には現に大量の武器があり戦争も起きる。その現実を直視しながら、村の四季の生活にはいつも日常であった山野や用水の争いの現場で、百姓たちが集団でその武器を使い、人を死傷することを抑止しよう、村にある武器を封じ込め、その使用を凍結しよう。そこに、この武器制御のプログラムの狙いがあった。つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。喧嘩停止令は、村に武器があるのを自明の前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元に武器はあるが、それを扮装処理の手段としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。

引用が長くなったが、要は「秀吉の刀狩り」「明治維新の廃刀令」「マッカーサーの刀狩り(日本民衆の武装解除)」はいずれも、武器の所有を全面的に禁止するものではなく(現に銃刀法のもとでは刀は231万本、銃砲も68,000丁が登録されて民間にあるという)、私たち(民衆)はこれだけ大量の武器の使用を自ら抑制し凍結しつづけて、今日にいたってきている。この現実の中に、日本人の平和の歴史への強い共同意思(市民のコンセンサス)がある、と著者はいう。

鱗がボロボロと言ったのは、まさにこのことに同感であり、「自前の憲法9条へのコンセンサスにも、もっと自信をもつべきではないか」という著者の主張に共感するからでもある。  (9月7日(水))







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