読書日記

平成16年7月〜9月

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「桃太郎と邪馬台国」(前田晴人・講談社現代新書)

「おとぎ話の古層に倭国の痕跡が見える!一寸法師・桃太郎・浦島太郎の原像を検証する古代史学。(表紙解題より)
「一寸法師」と住吉神話。邪馬台国vs.吉備国、そして丹後半島。「桃太郎」と吉備国平定伝承。「浦島太郎」と卑弥呼の特使。(目次)

目次から著者の主張が窺える人は、古代史にかなり詳しい人だろう。わからない人は本書を読むと、御伽噺からそんな深読みができるのか?と思うだろう。

著者は「邪馬台国=大和」説に立っている。その上で、3つの御伽噺が「大和国家草創」の時代を反映している姿を見ようとしている。

本書で印象に残ったのは、丹後に弥生・古墳時代初期の遺跡・遺物が多く、異国との交流を示す様々な文物があること、浦島太郎の原話である嶋子伝承もこうした異国との交流を背景に成立した話であろうという論調である。つまり、丹後と邪馬台国を結びつける手がかりとして「魏志倭人伝」にある遣魏使次使「牛利」(ごり)が古事記「開化天皇段にある「丹波の大県主・由碁理(ゆごり)」と同一人物だろうと推定しており、彼が邪馬台国の派遣官「一大率」の下で外交の実務や海外航路の監視に当たっていたであろう「?馬觚(しまこ)」の任にあったこと、その彼が中国の都に派遣されるという歴史的事件を身をもって体験したことを、帰国後自分の周辺に語って聞かせたことがもとになって嶋子(しまこ)伝説が生まれていったのだろう、と結んでいる。

百家争鳴の邪馬台国論争の初期・草創期には論著を渉猟していたが、あまりの多さに足が遠のいていた。これを機会に、最近の邪馬台国論に戻ってみようかと思っている。(9月26日(日))



「歴史廃墟を歩く旅と地図  水路・古道・産業遺跡・廃線路」(堀淳一・講談社+α新書)

昨年5月に紹介した「消えた街道・鉄道を歩く 地図の旅」のシリーズ続巻。『豊かな自然の中に歴史の残影を探す!地図を読み自ら旅を創り出す"美と知"を感じる旅』。
前著から1年4ヵ月。著者は喜寿を超えたはずなのに、あいかわらず元気に日本中を飛び回っているようだ。

歩いた所の一部を挙げると、「猪苗代湖から東へ安積疎水を追う」「ガレ場横断の冒険行 秀衝古道」「紅葉の絢爛に潜む幽界 鉱山廃墟」「お寺詣での廃鉄路 永平寺線跡」・・・

羨んでばかりしていても仕方ない。
近くの同じような所を、一つでも自力で地形図から探し出して、歩くこととしよう。いつか、ご報告できるよう。 (9月5日(日))



「大阪ことば学」(尾上圭介・講談社文庫)

「客のややこしい注文にも『惜しいなあ、きのうまであってん』と切り返す機転。魔法の終助詞『ねん』をつければ、たちまち相手も心を開く。聞いてる人も自分も楽しむのが大阪ことば。そこには心くばりの伝統が息づいている。お笑いを愛する言語学者が明快に説く大阪文化論。こんな本、ちょっとないで、しかし!」(表紙カバー裏)

関西弁を初めて耳にしたのは、ラジオから流れてくる花菱アチャコと浪花千恵子の演ずる「お父さんはお人好し」だったろうか。
生身の関西弁を聞いたのは大学同級生で西日本出身の数人だったのだろうが、今から思うと純粋の大阪出身はKo君だけだった。
社会人になって、会社には大阪・京都・神戸出身者が多く、彼らの言葉が本社・工場で闊歩していたように思う。

著者は大阪市の十三で生まれ、豊中市で小学校に行き、いわゆる阪神間で中学、高校生活を過ごし、大学で初めて東京に出る。東大で大学院までを終え、11年間の東京暮らしをして、神戸に戻ってくる。大阪をよく知り、そして東京もよく知っている学者で、しかも国語の先生ときている。その著者が、言葉を文法的、語彙論的あるいは音韻論的に論じたものではなく、言葉を通して、言葉が内包する文化を解き明かしたところ、もっと言えば、大阪の文化そのものを言葉の分析によって論証したところに、本書のユニークさがある。

実例の一つを挙げると、大阪人はどこに行ってもうるさい、おしゃべりであるとよく言われる(私もそう思う)。この発話量の多さと、「変化を好む」感覚から直接に出てくる「変わったこと好き」「意外性大好き」のものの言い方とが一緒になって、よその人からは「大阪人は、目立ちたがり屋で自己顕示欲が強い」などと言われることが多い、と分析されている。

さらに詳しい実例は本書を読んでほしいのですが、大阪のことばに見られる特徴を次の項目に整理している。(A)相手との距離の近さ(開放性)、その一面でもある(A')会話の共同作業の感覚(共同性) そのほかに (B)「当事者離れ」の感覚、(C)大阪独特の「照れ」あるいは「含羞」、(D)停滞を嫌い、変化を好む感覚、(E)「対人的対応、状況対応の敏捷さと細やかさ」、(F)その場で絵をかく「合理性指向」、(G)異質な要素、側面を積極的に共存させて対象を認識する「複眼的思考様式・認識の重層性」、(H)「そのものズバリの表現傾向」。

じっくりと紹介できない力不足で申し訳ないが、大阪人好きの人も、嫌いな人も、ぜひ読んでみるとよい本である。(8月28日(土))



「老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵」(佐藤雅美・講談社文庫)

時・所かまわず居眠りしてしまう。今でいうナルコレプシー、あの色川武大も罹っていた奇病。この奇病持ちの故、同心職でありながら、江戸の町の花形「定回り同心」になれず内勤職「物書同心」に留まらざるをえなかった我らが藤木紋蔵。町奉行所で、ありとあらゆる願い事や諸届けを筆記し記録する、けっして暇ではない仕事の合間に 「見当違いなことをやっていながら、意外や意外、犯人を捜し当てたり、事件の真相を探り当てたりと、不思議な力を持ち合わせ」 結果として事件を解決してしまう。昼間はぼんやりしていても、裏にまわると結構有能な役人なのだ。

江戸の町奉行所の下級役人として過去の判例・事件例に精通しているという特技を活かし、居眠りをしながらも同僚の定回り同心に知恵を貸してやったり、自分で探りをいれたり、友達である口入れ屋の力を借りたり、江戸時代ならではのあるいは現代にも通じる市井の事件に首をつっこみながら、難なくあるはやっとこさっとこ解決してしまう。その度にどんな解決方法がとられるのか、興味深々。

今年1月に紹介した 「公事宿事件書留帳」 もそうだが、昔の「○○捕物帳」のマンネリ話とは違って、事件解決の意外性、小気味良さは読み進むうちに溜飲を下げてくれるところに面白さがある、と言える。(8月4日(水))



「ぼくは痴漢じゃない!--冤罪事件643日の記録--」(鈴木健夫・新潮文庫)

「ある朝、通勤電車の乗り換え駅で、若い女性に腕をつかまれ、『触ったでしょ!』 と糾弾された一人の会社員。駅員に諭され事務室に行くと、現れた警察官はすでに彼を痴漢扱い。そのまま留置場に放り込まれ、ベルトコンベア式に犯人に仕立てあげられて・・・・・・。2年の歳月をかけ、仕事と金を失いながらも、逆転無罪判決を勝ち取った痴漢冤罪被害者の渾身の手記。」(表紙カバー裏)

東京の高校通学から始まって、つい最近までの長時間通勤、工場勤務時代を除いた約40年間、総武線・京王線・東海道線の満員電車通学・通勤を続けてきた。故意に痴漢行為をしたことは断じてない、のだが心ならずもそれと間違われないともなりかねない事態に陥った経験はサラリーマンなら一度はあるのでは?その時、「痴漢です」と大声を上げられなかったのは幸運だった、というべきか。著者の蒙った「被害」は全く「気の毒」の一言だけしかない。

身の潔白を示そうと、駅の事務室に入った途端に冤罪のベルトコンベアに乗せられてしまう恐ろしさを、本書は教えてくれる。それを避けようと思えば、逃げるにしかず、という情けない教訓。

本件が起きたのは6年前、高裁の判決があったのは4年前、当時この種の事件・裁判報道が新聞を賑わせ、サラリーマンの話題になっていた。その後も同じような冤罪事件は繰り返し起こっているようだ。

6月に紹介した「取調室の心理学」でも取り上げられたと同じ警察への不信感、裁判員制度への不安感、がいっそう募ってくる。(7月30日(土))



「在日・強制連行の神話」(鄭大均・文春新書)

「在日コリアンのほとんどは戦前日本が行なった強制連行の被害者及びその末裔だ、という『神話』がある。この神話は日本社会に広く流布し、今や『常識』にすらなりつつあるが、著者はそれに疑問を呈する。多くの在日一世の証言を読むと、大多数は金もうけにあるいは教育を受けに、自らの意志で海峡を越えた様子がみてとれるからである。著者はこの『神話』がどのようにして拡がり、どう今の日本社会に影響しているかを分析しつつ、その実態にせまる。(表紙カバー裏)

ドラマ「冬のソナタ」を見ましたか?我が家では、毎週土曜日夜のチャンネルはまりこが握っている。50代女性以下の最近の若い人にとっては、韓国は見知らぬ新しく来た国なのだろうか?北朝鮮は「拉致」の恐ろしい国なのだろうか?
戦後の混乱期に子供時代を過ごしたわが身を振り返ると、在日朝鮮人に対する「悪者」「無法者」のイメージをどこからとも覚えず持っていたことを思い出す。それが、いつのまにか学校教科書では「在日朝鮮人は強制的に日本に連行されてきた」気の毒な人達ということになっていた。
本書は、その歴史と何故?を解明しようと試みたものだ。

反証の証拠に取り上げられているのは、1988年に在日本大韓民国青年会によって刊行された『アボジ聞かせてあの日のことを−−"我々の歴史を取り戻す運動"報告書』。自らのことを語り、書くことの少なかった在日1世への聞き書きで、彼らの日本への「渡航」が自らの意志による例が圧倒的に多いことが読み取られている。

一方で、1965年に刊行された『朝鮮人強制連行の記録』なる本の内容への批判的検証もおこなわれる。

両書の内容検証によって、在日・強制連行の神話性が暴かれていく、というのが本書の内容である。読後、本書によって蒙を啓かれたと強くは言えないものの、考えてみる価値はある主張だな、というのが私の感想である。(7月26日(月))



「眠れぬ夜のラジオ深夜便」(宇田川清江・新潮新書)

平日の23時20分からNHKラジオ第1放送で始まる「ラジオ深夜便」を聞いたことがありますか?
幸か不幸か、深夜起きていることが出来ない私は聞いたことがありません。ただ、早起き老人予備軍としてはいずれはこの番組に嵌りこむのかという怖い期待もあります。

著者の宇田川アナウンサーのことは昭和30年代のTVで会ったことがある記憶がある。本書は、この宇田川さんの番組創設以来の思い出を語るものです。

この番組のアンカーの一人に室町アナウンサーがいる。実は、私はこの番組の中で室町さんがデンスケを肩にして東京の町を巡った記録本の読者でもある。

一度、宇田川さんや室町さんの生の放送を聞いてみたいと思っている、今日この頃です。 (7月21日(水))



「だれが『本』を殺すのか(上)(下)」(佐野眞一・新潮文庫)

7月17日の新聞が、「青山ブックセンターが16日限りで営業を中止した」と報じていた。
また一店、本書が取り上げた「書店の死」だ。
六本木店は時々覘いたことがあったが、デザイン、美術などの本を取り揃えている印象があった。

「本が売れない---。相次ぐ出版社の倒産と書店の閉店。活字離れと少子化。毎日200点もの新刊が並ぶのに、『本』を取り巻く状況は、グーテンベルク以来の未曾有の危機に陥っている。果たして『本』を殺したのは誰なのか。書店、図書館、流通、出版社、あるいは著者・・・・・・、その『事件』の犯人を割り出す、過酷な追跡が始まった。すべての関係者に隈なくあたった、渾身のルポレタージュ」(表4・惹句より)

著者が産み出したテキストが、編集者と出版社の手で加工され、取次を経て書店に並び、「本」という名の商品として読者に消費されるまでの全プロセスを串刺し状に書く。そして、その過程で必然的にからむ図書館や書評にも目配りする。それが、本書『本コロ』捜査編のいちばんのモチーフだ。そして、本書後半の検死編では、オンライン書店、電子出版に加えて新たにレンタル書店やマンガ喫茶など出版界で起きていることにも触れている。



文庫のページで合せて900頁超。前著「東電OL殺人事件」とは違って、内容を我が読書体験と重ね合わせながら読むのは苦労多く、読了するのに二週間、感想を纏め・掲載にこぎつけるのに時間がかかりすぎた。

去年の超ベストセラー本「バカの壁」は読まない。もちろん「世界の中心で、愛をさけぶ」などは歯牙にもかけない。私の読書傾向は、ここで取り上げる本でおわかりでしょう。それにしても、ハードカバー本がなくほとんどが文庫と新書なのだから、出版業界にとってはそれほどありがたい客ではないのだろう。。(7月18日(日))




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