読書日記

平成15年10月〜12月

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「禅的生活」(玄侑宗久・ちくま新書)

40歳代の10年近く、月2回の参禅会に出席していた。とはいうものの、その日の仕事を終えて座禅の開始時間までにでかけることができないことが多く、大半は座禅後の導師の講話を聞くにとどまることが多かった。
本書には、その時に聞いた「禅語」が沢山出てきて、読んでいるうちにあらためて思い出してその意味を噛み締めた。あの時の導師が語ってくれた話がその後の生活にどんな影響を与えてくれたのかあまり思いつかないのだが、年齢を重ねてみると導師の言わんとしたことが何となくわかる気もするようになった。

「月在青天水在瓶」(月は青天に在り、水は瓶に在り)、「只管打座」(しかんたざ)、「悉有仏性」(しつうぶっしょう)、「心身脱落」(しんじんだつらく)、「随所作主立処皆真」(随所に主と作れば立処皆真なり)、「父母未生以前本来面目」(ぶもみしょういぜんのほんらいのめんもく)、「無一物中無尽蔵」、「有花有月有楼台」、「柳緑花紅真面目」、などの禅語について、芥川賞を受賞した作家でもある著者があらためてその意味するところを語ってくれた。
「悟り」と程遠い所に暮らす身にとって、「禅的生活」は永遠の課題だろう。 (12月25日(木))



「漆芸 −日本が捨てた宝物− 」(更谷富造・光文社新書)

2003年1月、NHKスペシャル「千年の道具を守りたい」で、漆筆に使う熊鼠の腋毛を求めて中国へ渡り結局入手できなかった職人こそ本書の著者だった。
輪島塗りの職人にとって必須の道具をつくる材料や職人が消えていってるのだ。戦後日本の「早く、安く、大量に」生産するという風潮が、本来絶対に効率化してはならない伝統工芸やアートの世界にまで及んで、素材を落とし、材料を減らし、技術を落とし、感性は二の次三の次になってしまった結果だという。
著者は明治以来海外に大量に流出した高い技術でつくられた漆芸品の修復(修理復元)で世界を股にかけて活躍しているが、本書では、材料・技術が途絶える寸前であるにかかわらず狭い社会に閉じこもる日本漆芸界を憂え、悲憤慷慨し、その復活のため北海道美瑛に「クンストハウス」を設けて活動をしているものの、ここでも地元の無理解に直面していることに怒っている。
著者の気持ちもわかるが、アートの本質を理解できるスポンサーがいず「日展作家作」のブランドでしか購入しない日本の漆芸界では著者の嘆きはまだまだ続くことだろう。 (12月17日(水))



「親指と霊柩車 −まじないの民俗− 」(常光徹・歴博ブックレット)

1.「二人が同時に同じことを言ったとき、どうしますか?」 2.「『エンガチョかぎしめた。』ってわかりますか?」 3.「霊柩車を見たらなにかしますか?」

1.「ハッピーアイスクリーム」と先に言った方がアイスクリームをおごってもらえる。これは知りませんでした。「箸わたしの禁忌」「相孕みと勝ち負け」など、「同時に同じ」は危険な関係にあるという習俗がある。
2.斜め十字(バッテン)と魔よけの習俗。
3.子供の頃から今でも、街中で霊柩車を見ると慌てて親指を隠す癖がある。そうしないと親の死に目に会えない、と教えこまれた覚えがある。霊柩車に限らず親指を隠すしぐさは、霊的なものが親指の爪のあいだから出入りするという意識があって、昔から存在したという。
百頁たらずの薄い冊子だが、身近な習俗に意外な無意識行動が隠されていることを考えさせてくれた。

佐倉の「歴史民俗博物館」に行ったことがありますか?横浜から行くにはちょっと遠いのですが、遺跡・遺物を精巧なレプリカで展示している一日ではとても見きれない楽しい博物館です。26日、定年後ここでその技術を活かしている先輩のAさんに、開催中の企画展示「歴史を探るサイエンス」を案内してもらった。その日、売店で目について買ったのが本書です。 (11月29日(土))



「里山公園と『市民の森』づくりの物語 −よこはま舞岡公園と新治での実践− 」
  (浅羽良和・はる書房)


昭和58年、子供たちが「ねんどがわ」と呼んで遊び場にしていた舞岡川源流の小川の谷・雑木林(その頃は「谷戸」という言葉は知らなかった)で、「まいおか水と緑の会」と名乗るグループが活動を開始していた。炎天下、葦の生い茂ったかつての田んぼを掘り起こしたり、上総掘りという手法で井戸を掘ったり、雑木林の下草や熊笹を刈ったりしている様子を、散歩の途中で見やって「ご苦労なこと」と思っていたものだった。その活動が設立されたばかりの公益信託「富士フイルム・グリーンファンド(FGF)」の最初の独自事業になったと聞いた時は、みなおしたものだった。

本書は、市民グループと行政の二人三脚ですすめてきた「里山公園」(舞岡公園)と「市民の森づくり」(新治市民の森)の実際を、現場担当者ならではのエピソードを添えて届けるレポート。

本書は「行政」の側からの発言だが、いつか「市民」の側からの物語りを、本書に「小柳徹子」さんとして登場する「やとひと未来」舞岡公園田園小谷戸の里管理運営委員会・事務局長のKさんから、聞いてみたいものだ。

(追記) きのう23日は舞岡公園の「収穫祭」、来場者は約3,500人の大盛況だった。「やとひと未来」ボランティアスタッフの面々の溢れんばかりの笑顔が印象的だった。 (11月24日(月))



「燃料電池」(槌屋治紀・ちくま新書)

槌屋君の前著「調べてみよう エネルギーのいま・未来」に引き続いての概説書。 定年半年前まで2年間出向していたシンクタンクではエネルギー関連の委員会の事務局を担当していた。 特に後半は「水素エネルギー」の調査研究に関わっていたので、本書のテーマには強い関心を持って読んだ。

前著にもあったように、著者の立場は、
「望ましいエネルギー戦略は、エネルギー効率を上げて必要なエネルギー需要を小さくしてゆき、 エネルギーを大陽エネルギーのような枯渇しない自然の循環のなかにあるものに求めてゆくことである」。
本書では、現在世界で進行している自動車用燃料電池の技術革新の内容をのぞいて、
そこで何がおきつつあるのかを検討し、「自動車産業の変貌」と「水素エネルギー社会」と 「望ましいエネルギー戦略」との関係を探っていく。

結論は、「水素エネルギー社会」は「望ましいエネルギー戦略」にかなっており、これから人類が進んでゆく方向として 大筋のところ間違いない。残る課題は、水素の安全性、燃料電池の経済性、水素インフラのスムーズな建設である、 という。

今年7月に漸くカードライバーの仲間入りすることになった私としては、否応なく自動車にまつわる エネルギー効率・環境汚染・交通安全に関わることになった。
その立場を考えると、著者の最後のメッセージ、 「私たちがエネルギーや資源を上手に使うエコロジカルな生活をすること、技術とライフスタイルのふたつが同時に必要である。とくに長期的には、私たちのライフスタイルが重要な鍵を握っている」が印象に残る。(11月11日(火))



「東京大学応援部物語」(最相葉月・集英社)

36-L1-4という大学クラスには、後にプロ野球球団「大洋ホエールズ」で活躍するN君と、 本書の舞台である応援部のO君とがいた。
前期末試験と重なる秋のシーズン開始時期を除いて、神宮球場に野球の応援に行くのが 4年間の楽しみの一つだった。負けても負けても出かけ、奇跡的に勝った時に応援歌「ただ一つ」を 声高らかに歌う時の晴れやかな高揚した気分を今も思い出す。
本書は、そのO君の後輩達わずか11人の応援リーダーの日常を描くルポである。
すさまじい肉体酷使と部をとりまく社会で成長していくさまはO君の時代と同じなのであろうか。
今度、聞いてみようと思う。(11月7日(金))



「鉄道ひとつばなし」(原武史・講談社現代新書)

宮脇俊三が亡くなり、堀淳一が歳を重ね、種村直樹も病後元気に飛び回ることが少なくなった昨今、ご贔屓の鉄道紀行作家の文を目にすることが少なくなり寂しい思いをしていた。
本書は講談社のPR誌「本」にあしかけ8年連載されてきた小文を集成したものだという。
政治思想史を専門とする歴史学者の書く文らしく、一定の定まった視点から捉えられた鉄道関連の話題は新鮮な興味と驚きを与えてくれる。
東京、原宿、高尾、聖跡桜丘、この四つの駅に共通することは何か?
それぞれ、明治・大正・昭和の三代の天皇にまつわる駅、ということを知る、そういう楽しみを味わえるのです。
考えてみれば著者の「大正天皇」(朝日選書)はすでに読んでいたのだが、そういう目で本書を読むと
私の中で、あらためて新しい鉄道関連作家の仲間に加えることにした。今後が楽しみだ。(10月28日(火))



「ケータイを持ったサル 『人間らしさ』の崩壊」(正高信男・中公新書)

自動車運転中・電車内・食事中・・・いたる所で目にするケータイを使ってのメール・電話シーン。
酒・たばこ・麻薬とならんで「ケータイ依存症」がメディアで報じられている。

----「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも
   他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを
   拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。
   現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?
   気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。

普通の大人には理解できない最近の若者の行動を、サル学研究者としての著者が、
それを研究対象としてとらえるとこうなった、というのが本書の内容だ。
タイミングのよい出版で、まさに目からウロコが落ちる思いだった。(10月16日(木))



「東電OL殺人事件」「東電OL症候群」(佐野眞一・新潮文庫)

この著者の作品は、無着成恭と教え子たちを追った「遠い『山びこ』」、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた「旅する巨人」、中内功とダイエーの「戦後」を描いた「カリスマ」、の三作品を読んでいる。
この作品の初版本はあまりに分厚く、また表題のせいもあって手にしていなかったが、相次いで文庫化されたのを機に読んでみた。

本書に対する書評は発行直後から多数・多角的に出されているので、私の書評はしない。



文庫のページで合せて千頁をほぼ2日間で読んだ感想は、「ルポライターに必要な資質は、自分の直感を些細なことまで粘り強く追求する行動力である」、と思ったことであった。
東電OLが何物かによって絞殺された事件の容疑者がまだ逮捕されていなかった発端から、4年8ヶ月、OLの転落の内面の謎・警察と司法の動き・読者の反応を3本の柱に、何度も現地に行って関係者に執拗に取材していく過程を描いたものとして読むと、著者の凄さがひしひしと伝わってくるのである。(10月8日(水))

10月21日、最高裁は「上告棄却」の判決を下し、ゴビンダの無期懲役が確定した。
本書の読後直後のことなれば、著者の悔しさが想像される。



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